アラカルト
43.松山城築城
 長らく河野氏が君臨してきた湯築城は廃城となり、その城下の住民たちも新しい都市計画に基づ
 いて松山城下に移され、道後平野の様相は一変しました。名実とともに伊予の中世は終わりを
 告げ、新しい時代が始まったのでした。
 慶長7(1602)年、加藤嘉明は松山城(勝山城、金亀城とも言われた)の築城を手がけま
 した。
 嘉明は、築城奉行に足立重信を命じ、工事にかかります。
 重信は築城にかかる前には石手川の改修にかかり、町を洪水から守るなど町づくりにも着手し
 ています。
 築城はまず二つの山の間を埋めて平坦にするなど大工事でしたが、そうした工事には多くの
 領民が協力しました。
 当時の天守閣は今のような三層ではなく、白壁の五層(異説もあり)でした。
 城の完成を目前に嘉明は会津へ転封(40万石)、その後の城主・蒲生忠知が城を完成させて
 います。[寛永4(1627)年頃]。
 更に、松平(久松)家が松山城主(15万石)を引き継ぎ、明治維新まで存続します。