河野氏の終焉
37.降伏した河野通直(牛福丸)
 天正3(1585)年6月、秀吉の命により小早川隆景、吉川元長が伊予国東予に上陸、抵抗する
 東予の諸城を陥し、7月29日には湯築城まで攻め寄せます。この時、隆景は城中の河野通直に、
 「すみやかに軍門に降って家名をのこすように」との勧告状を送ります。
 隆景は毛利元就の三男であり、河野氏と毛利氏はつい最近まで攻守同盟を結んでいた関係で、
 しかも通直の妻は毛利輝元(元就の孫)の姪でした。
 そうした事情や、土佐の長宗我部氏の秀吉への帰順などから、城内の軍議は降伏に決しました。
 湯築城はこうして開城されますが,これに続いて南予など各地の城主らも降伏し、伊予国は
 秀吉の支配下に置かれました。その後、通直は隆景の筑前名島(福岡県)52万石への転封に
 伴い、毛利輝元の安芸・竹原へ移り住み、この地で24歳の若さで没します。
 その跡を継ぐ男子がなく、河野氏は400年に及ぶ歴史の幕を閉じました。