河野氏の内乱
31.ともに戦った宗家と予州家
 そのような河野家の内乱も、次に起き、全国的に大騒乱となった応仁・文明の乱(1467~
 77年)にのみこまれます。この乱は将軍継嗣問題から起きた細川方(東軍16万余騎)と
 山名方(西軍11万6千余騎)の戦いでしたが、河野氏は山名方についた大内氏に河野通春が
 水軍を率いて参加しました。宗家の動向はよくわかりません。
 しかし、山名宗全と細川勝元の両巨頭が相次いで病死、京が焼野原になったので、両軍の武将
 達は相次いで帰国しました。そして、河野氏の宗家と予州家は、再び伊予の地で戦いを交える
 ことになります。
 そんな状況につけこむように、細川義春が阿波、讃岐両国の兵を率いて三たび」伊予国へ侵入
 します[文明11(1479)年]。当時の河野宗家は教通(のりみち)から弟の通安芸、さら
 に教通の子・通宣(みちのぶ)へと継承していました。
 この当時、通春は子の通篤(みちあつ)に命じて、大熊城(川内町)を守備させ、宗家と共同
 戦線を張りました。