河野氏の内乱
30.内乱勃発
 時代は流れ、嘉吉(かきつ)の乱[嘉吉元(1441)年]の時、予州家の通春がなんらかの事情で
 参陣が遅れました。幕府はこれをとがめ、宗家の教通に通春を討つよう命じます。
 このことに端を発し、宗家と予州家はたもとを分かちます。そして通春は伊予国へ帰り、中国地方
 の実力者・大内政弘に援助を依頼します。
 通春の拠点・湊山城(みなとやまじょう=松山市)は道後平野の西端の海岸(三津の北)に島のよ
 うに突き出た要害の城でした。通春は村上水軍を勢力下におき、伊予国内では宗家をしのぐ勢い
 だったので、大内氏も通春の力を利用したかったのではないかと思われます。
 一方、宗家の教通に対しては幕府の意を受けた細川氏、小早川氏、毛利氏などが援助しました。
 こうしてみると、伊予国における宗家と予州家の紛争は、いわば細川氏と大内氏の代理戦争であっ
 たようです。