戦乱の南北朝時代
23.世田山城の戦い
 世は南北朝時代となり、伊予国内でも骨肉の争いを演じました。一時は後醍醐天皇の
 皇子・懐良親王(かねよししんのう)が征西将軍として忽那島(中島町)へ滞在、伊予の
 南朝方の気勢は大いに上がり、湯築城が一時、忽那氏に奪われたということが記録
 (忽那一族軍忠次第)に残されています。
 こうした北朝方(武家方)にテコ入れするためか、室町幕府は通盛に伊予国守護職を
 補します[観応元・正平5(1350)年]。
 この後の貞治3・正平19(1364)年に通盛は惣領職を子の通朝(みちとも)に譲り、
 自分はかつての本拠地・河野郷の善応寺(ぜんのうじ)へ隠退したと言われます。
 さて、かねてから四国統一を目論(もくろ)んでいた室町幕府の雄・細川頼之(ほそかわ
 よりゆき)が讃岐より伊予へ侵攻してきます。
 これに対し通朝は、世田山城(せたやまじょう=朝倉村)に立てこもり防戦しますが、
 城内に離反する者が現れ、通朝は戦死します。