元寇と河野通有
10.文永の役(蒙古襲来)
 文永11(1274)年10月に蒙古(元)の大軍(軍船900,兵2万「5千余)が対馬、
 壱岐を襲い、ついで北九州沿岸の平戸、能戸、鷹島などを攻撃し、多くの住民が捕らえられ
 殺害されました。一回目の蒙古襲来で、「文永の役」と言われます。
 これを迎え撃った日本軍はおおいに戸惑い、苦戦しました。
 当時の日本軍は武士の作法として、まず戦う前に小鏑矢(こかぶらや)を放ち、
 名乗りをあげるのが慣わしでした。元軍はこれを笑い、かわりに「てつはう(鉄砲)」
 という爆雷を投げつけ、毒やりを放ち集団戦法で日本軍を圧倒しました。
 『蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)』に書かれているように、日本の武士たちも
 懸命に戦っています。しかし、10月20日の激戦(日本軍は太宰府水域まで後退)を
 境に元軍は船に引き揚げ、翌日は忽然と姿を消したのです。
 前夜の暴風雨で多くの軍船が難破するなどの被害をこうむったからだと言われます